- 2024.12.16
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福祉用具業界の時流
沖縄県で利用者数4000名!シルバーサービス沖縄の2代目川平社長に迫る!
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以下、株式会社シルバーサービス沖縄 代表取締役 川平康爾様のご紹介レポートです。
20代を銀行員として過ごす
私自身は、もともとこの会社に入るつもりはなく、大学卒業後は沖縄県内の地方銀行に就職しました。
その当時、会社については「父親がやっている会社があるな」というくらいの認識で、父とも会社の話をすることは特になく、まったく関心はありませんでした。
自分自身の人生と父親がやっている会社はまったくの別物で、自身の銀行員としてのキャリアアップに奔走していました。
折しもその頃、銀行は低金利の時代を迎え、融資業務だけでなく、投資信託や外貨、M&Aといった領域にも業務範囲の拡充を図っていたタイミングでした。
エリート銀行マンから転身!父の会社へ入社を決意する
銀行に入行後、しばらくは融資業務をメインに銀行マンとしてのキャリアを順調に進んでいました。
入社7~8年目の頃、担当企業で実際に事業承継に携わる案件があり、業務を進めながら、ふと「父の会社って今後どうするつもりなんだろう・・・?」と会社の今後が気になるようになりました。
さらに「父と同年齢の義父が定年後のセカンドライフを満喫している一方で、私の父は現役で働いている・・・いつまで働くのだろう・・・。」
私自身(当時32歳)も入行10年目の節目を迎えるタイミングとなり、今後の人生についても真剣に考えはじめました。
「しがらみだらけの銀行員としてのキャリアを進む」のか、それとも「会社を受け継ぎ、新たな道でチャレンジしていく」のか、2つの選択肢が目の前にありました。
家庭(当時子ども2名)もあり思い悩みましたが、「どうせやるなら自分で楽しい道を創れる経営者の方がおもしろいんじゃないか」とチャレンジの道を選びました。
そうはいっても、父はなかなか素直に話をしてくれるタイプではなく、「銀行いつまでいるんか?」と軽い声かけはありましたが、それ以上何か言われることは特にありませんでした。
そんな様子だったので、私の方から「そろそろ10年だし、会社を手伝おうか?」と声をかけ、父の会社に入社する運びとなりました 。
入社後、すぐに財務面の立て直しに奔走する日々
2017年4月に、シルバーサービス沖縄に入社。当時は社会福祉法人を含む4社で年商20億円を超えるグループ会社の全体をみる経営企画部長の役職で着任しました。
経営企画部長とはいっても、父から特段何かをやってくれという業務の指示はなく、決まった仕事があるわけではありませんでした。
まずは各社の業況確認が必要でしたが、社内に経営数字や流れを把握している人がおらず。。。
各社の決算書3期分、現時点での試算表、現場へのヒヤリング等々、まずは各社の財務分析(現在地の確認)に取り掛かりました。
分析を進める中で見えてきたもの、それは「このままだと潰れる・・・」過去の経験からの警笛音でした。
さらに、そのタイミングで、新規事業の立ち上げが検討されている状況・・・
緊急性に優先順位をつけ、会社毎の施策の柱を立てグループ法人合同の経営会議で説明を行うも明らかに感じる温度差。誰も気付いていないのか、それとも言い切れないのか。
その当時を振り返ると、グループ全体の創業者である父の周りにはYesマンしか残っておらず、誰も止めきれなかったことも要因の1つだったんじゃないかなと思います。
そんな中、社長に対して物を言うのは私くらいで、この頃よく父とは喧嘩をしていました。
私が譲ると会社の未来が危うい、半ば強引にここから社内の財務の立て直しと、銀行をはじめとした社外への交渉等に奔走することになり、2022年頃までは「攻め」というよりも「守り」を固める時間が長く続きました。
まずは社員から!社員との関係性づくり
一方、社員との関わりでは、社長や部長職など上層部によるトップダウンが強い社風であったため、当時は社員と上層部との距離を強く感じました。
そこで、私は入社2~3年目のタイミングから、まずは社員全員と個人面談を実施していきました。
その中で「川平部長は、いつもパソコンを触っているが、何をやっているのか不思議に思っている」と言う声が人伝えで聞こえてきました。
正直、葛藤がありました。「現状を全部伝えて理解してもらいたい、しかし今はまだ言えない・・・」
私が思う理想の事業継承の形は、入社後営業現場を経験し、課長、部長のようにステップアップをしていく事が大切だと思っています。
しかし、私の場合は「財務危機を脱すること」が1丁目1番地だったのでデスクワーク中心となり、営業を経験していないだけに、社員との関わりの薄い日々が続きました。
いずれ会社のトップになる立場としてどのように社員と関わっていけばいいのか模索するうちに、とある研修に出会いました。
それは「コミュニケーション能力認定」なるもので、時には飛行機に乗って東京まで講座を受講しにいったりしました。
その中で、効果的なコミュニケーションの取り方を体系的に学び、社員とのかかわりに活かしていきました。
社員の中から「ようやく話を聞いてくれる部長が現れた!」という声が出始め、少しずつ信頼関係が構築されていく実感が掴めてきました。
一方父とは「いつ継承をするのか?」と聞いても、「考えてはいる」の一点張り。
これは考えていない人の先延ばしだろうと捉え、2023年後半に私のほうから「いつまでも継承の時期が定まらず、目標設定もない中走り続けるのはキツイ」旨直談判し、ようやく2024年4月に社長交代に至りました。
社内大改革へ!遂に改革に着手する
会社の舵取りをしていくにあたり、社長就任以前から大きく3つのことに取り組んできました。
①選択と集中
入社から本日に至るまでに2つの事業を撤退しました。
施設向けの物販事業(紙オムツや消耗品等)と弊社創業の事業でもある緊急通報システム事業です。
当時、売上は合わせて4億円程ありましたが、どちらも採算性に大きな課題がある状況。
それも入社後に手掛けた部門会計により見えてきた事でした。当時の経営資源や県内のマーケット環境、将来の見通し等、総合的に判断し、当時社長の父を説得し撤退を決めました。
これを機に、収益面、財務面、キャッシュフロー共に改善でき、現在の黒字経営に繋がっています。
②目標設定と評価
これまでは、評価や賞与等についても、いわゆる「鉛筆なめ」で先代が1人で決めていました。
「頑張っても頑張らなくても変わらない」「どうやったら評価されるのか全く分からない」そんな状態だったと思います。
私が入社後3年目の2020年、撤退事業のクロージングと同時時期に評価制度の刷新に着手しました。
社員からは「数字で人を判断するのか」「頑張っている部分は評価されるのか」等、様々な反発があり、当時は全社員VS川平という構図でしたが、
なぜ評価制度を刷新するのかという部分から説明を重ね、半年に1回の賞与面談時にフィードバックを繰り返してきた事で、何とか浸透させる事ができました。
今では会社が向かう姿の物差しとして、ほとんどの社員が理解を示してくれています。
また、弊社では社員向けに半期に1回の決算報告を行い、会社の数字を包み隠さず共有しています。
社員自身も普段の業務がどの数字に反映されているのか感覚的にわかるようになってきてくれていると感じています。
③ポストづくり
私が入社した当初の組織は、1人の部長とそれ以外の社員という体制でした。前述したように、トップダウンの強い風土で、どちらかというと活気には乏しい雰囲気だったと思います。
社員全員で考える組織にしていきたい、そのために権限移譲を進めていきたいという想いから、新しく部門や業務ごとに責任者のポストを作っていきました。
事業所としての管理者だけではなく、副管理者、倉庫管理者、事務管理者、モニタリング管理者といった、多くのポストを新設しました。
そうすることで、それぞれの管理者が小組織のリーダーとしての仕事をしてくれるようなってきています。
各管理者の評価は、チームの数字評価をメインとし、その評価と賞与等の待遇をリンクさせています。
人事評価の仕組みを作るにあたっては、前職の銀行員時代のものをベースに作成し、今でも様々な情報や方向性に応じて変化させています。
数字の評価だけではなく定性面についても、会社が目指す方向とフィットするように設定する事が、継続的な成長に繋がると思います。
このような取り組みを通じて、古い体質であった会社を、なんとかかんとか少しずつ前に進めることができています。
それに伴い、昨年度は過去最高の利用者数の純増を達成。今年度は昨年度を更に上回るペースで推移し、再成長フェーズに入ってきているのではないかと手ごたえを感じています。
とはいえ、ここに至るまでは紙面の都合上書き切れないこと、またちょっと大っぴらには言えないことも入社から社長就任までの期間に色々と濃すぎる程経験してきました。
今回のセミナーでは、これまでの取り組みから今後の目標まで包み隠さずお話をしたいと思います。
みなさまとお会いできますことを、楽しみにしています。
【もっと詳しく話を聞きたい!と思った方はこちら】
https://www.funaisoken.co.jp/seminar/122380
後編に続く。